風の狩人


第1楽章 風の紋章

1 予兆



私立宮坂高校の西門、職員専用通路に一台の車が入って来た。磨き上げられた銀の車体。ウインドーガラスに朝日が反射して煌いている。運転しているのは結城直人(ゆうき なおと)。この学校の音楽教師だ。

彼は滑り込むように校舎の影の定位置に車を停めた。
そして、静かに車のキイを抜くと何気なく時計を見た。6時45分。かなり早い出勤だ。が、既に停まっている車は5台ある。いずれも体育系クラブの顧問だ。宮坂高校はスポーツが盛んな進学校だった。7時になると正門が開き、朝練が始まる。結城は吹奏楽部の顧問だった。文化系では唯一朝練を行っているクラブである。

結城が車から降りると、街路樹の向こうを何人かの生徒が賑やかに歩いて来るのが見えた。朝だというのに陽射しがきつい。9月下旬のこの時期になってもなお、日中は蒸し暑い日が続いた。だが、朝の時間のこの風だけはさわやかで気持ちがいい。
結城は広い駐車場を横切った。そして、巨大な校舎の影を出る。
途端に、視界が開けた。目の前はグラウンド。遮る物がなくなって、一斉に降り注ぐ朝の光。風がヒューッと吹き抜けて彼に絡んだ。
彼は、ふっと足を止める。そして、空を見、頭を振ってグラウンドを見た。しんとしていた。生徒はまだ誰も来ていないらしい。
が、何かがちがう。彼はいつもとちがう風の流れを感じていた。

――直人

突然、頭の中に声が響いた。
「ナザリー……」
振り向く結城。だが、そこには誰もいなかった。
そう。いるはずがないのだ。それはもう3年も前、ドイツでの事なのだから。それを思い出して、結城はふと苦笑した。
「懐かしい……あの時と同じ匂いがする……」
切ない想い。風が回っている。彼は、それを知っていた。風はいつも一つ場所に留まらず、世界を、時を巡っている。そして、何年かに一度、ふと気まぐれにその場所へ、その人の元へと戻って来る事があるのだ。その時の全ての想いと記憶を連れて……。

――直人

風は木々の枝を揺らし、葉ずれの間から話しかけて来た。
(君はもう思い出の中にしかいない。ドイツと日本。君と僕では、あまりに距離が遠過ぎたんだ)
早咲きの金木犀の香りが漂っていた。枯れたブナの葉が一枚、左手にかさった。
「だから……おしまいにしよう」
そう言って、彼はその手を握り、その葉を散らした。そして、急ぎ足で歩き出す。
と、突然、彼の心に冷たいものが通り過ぎた。
「何……!」
それは、青空を裂くような不吉さで渦巻き、波立つ闇の風だった。

と、その時、歓声を上げて何人かの生徒達が校舎から飛び出して来た。威勢のいいサッカー部の生徒達だ。時計はまだ6時50分。
「また、正門を乗り越えて来たな」
青いジャージは1年生か。サッカー部の顧問の熊谷が自慢しているのを思い出した。

――いや、今年の1年はハリキリボーイが多くてな。7時前から自主練やってんだよ。校長に知られるとまずいんだけどさ。ま、5分や10分は多めに見てよ。藤沢健悟(ふじさわ けんご)なんて秋からレギュラー決定なんだから。期待の選手さ

その藤沢がサッカーゴールの方に走って行くのが見えた。あの“闇”の下へ……。
「危ないっ!」
結城は叫び、自らも駆け出した。今まで頭上で渦巻いていた闇の風が藤沢の動きと呼応するようにゆっくりとゴールの方へ動いているのだ。
闇の風――それは、災いを運ぶ風。過去の悲劇の記憶を持ち、それを再現するエネルギーの事だ。
結城は、それを見極める力を有していた。

「藤沢!」
結城が呼んだ。
少年が驚いたように立ち止まる。
振り向くと、結城が手で合図を送っているのが見えた。
「何ですか?」
怪訝そうに二歩三歩戻りかけた時だった。突然、巻き上げられるような風が吹いてサッカーゴールが傾いた。そして、次の瞬間、砂煙を上げながら藤沢に向かって倒れて来た。
間一髪。彼の足下ぎりぎりにクロスバーがあった。

「大丈夫か?」
と、結城が駆けつけて来る。続いて部員2人も青い顔をしてやって来て次々に尋いた。
「ケガは?」
「どこも何ともない?」
生徒達には見えなかったが、災いの風は、もうそこにはなかった。
「無事だったようだね。よかった」
と、結城がにこりと微笑んだ。


「ほんと。間一髪だったんだぜ。まさに奇跡。ほんの数センチの差だったんだから」
1年生の教室が並ぶ廊下を歩きながら、藤沢は隣のクラスの風見龍一(かざみ りゅういち)に話していた。背が高く、日焼けした笑顔の映えるサッカー少年である藤沢とは対照的に、龍一は、色白で柔和な顔立ちの少年だった。
「もし、あの時、結城先生に呼ばれて振り向かなかったら、モロ直撃だぜ」
と言って、藤沢は大げさに首をすくめて見せた。
「それにさ、先輩から聞いたんだけど、6年前にも突風で倒れたサッカーゴールの下敷きになって死んだ生徒がいたんだってさ。そいつの呪いじゃないかって、みんな言ってる。だって、妙だろ? 今朝、風なんてそんなに吹いてなかったんだ」
と、小声で言う。
「うん」
と、龍一も少し神経質そうに眉を寄せた。ふと、その視線が窓の向こうを見る。
グレーがかった水色の空の下にアース色のグラウンドが広がっている。見ると、倒れたサッカーゴールの付近には、何人もの人が集まっていた。
3階のここからは遠いので、よくはわからないが、その中の一人は結城、そして、もう2人はサッカー部の顧問の熊谷と若井であるらしかった。

「おかげで、今日の練習なくなっちまったんだ。だからさ、今日は、久々に帰りにゲーセン寄らねえ?」
と、藤沢が首を巡らして言った。が、龍一はじっと窓の外を見ながら言う。
「遠慮しとくよ。勉強しなきゃ」
「チェッ。何だよ。それ? あいかわらず付き合いの悪い奴だな。こんな機会、滅多にないんだぞ。おれの生還祝いなんだぜ」
と、藤沢が拗ねたように言う。と、龍一が振り向いて言った。
「君が無事だったのはよかったと思うよ。でも、明後日は模擬試験だし」
と、そこへ、龍一と同じクラスでサッカー部の笹本が割り込んで来た。
「ほう。さすが、学年トップの言う事はちがいますね。友達より勉強のが大事だってよ。なあ。藤沢。幼馴染みだか何だか知らねえけど、いつまでもこんな奴と付き合ってると友達なくすぜ」

龍一は下を向いたまま唇を噛んだ。それを見て藤沢が、
「おい」
と笹本を突く。が、彼は構わず続ける。
「マジだぜ。みんな、こいつの事嫌ってんだ」
その言葉に、一瞬、睫毛を震わせる龍一。が、結局、黙って背中を向けると教室へ入って行ってしまった。
「あ、おい、待てよ。龍一!」
藤沢の声も空しく、龍一はさっさと自分の席に着くと教科書を広げ始めた。
「ほんと。感じの悪い奴だぜ。あいつ。教室でも誰とも口をきかないんだ。優等生だからって鼻にかけてんのさ。おまけに暗いし、ほんと。あいつの顔見てるとムカつくんだよ」
と、笹本が言った。
「よせよ。あいつだって昔からあんな奴じゃなかったんだ。ほんとは、明るくてやさしい、いい奴なんだよ」
「ふん。おまえもか? 1年でレギュラーになれたからっていい気になんなよ。足元掬われるぜ」
と、捨て台詞を残し、笹本も教室へと入って行った。


授業が始まった。が、龍一は、集中出来ずにいた。
笹本の言葉が気になった訳ではない。そんな皮肉やいやがらせの言葉など、とっくに聞き飽きていた。実力のない奴に限って、他人を中傷したがるものなのだ。どうせ、あいつはそれだけの者。そう思っていた。
(けど、健悟だったら、そんなふうには考えないんだろうな)
そう思って苦笑した。
(みんながぼくから離れても、健悟だけは、いつも側にいてくれた。たった一人のぼくの友達……)
その友達が言った言葉――。

――風もないのに、急に倒れて来たんだ。ほんと。スレスレだったんだぜ。もし、あの時、結城先生が呼んでくれなかったら……

(でも、本当に、その時、風はなかったのだろうか?)
龍一は、鉛筆を立てたまま、ぼんやりと窓の外を眺めた。が、教室の窓からはグラウンドは見えない。丁度、反対側にあたるここから見えるのは、空。ただ、明るいグレーの空に街路樹の緑が揺れているだけだ。
「風が……」
龍一ははっとした。
(まさか……! あの時と同じあの風が……?)
鉛筆を握った手に思わず力が入った。その圧力に負けて芯が折れた。白いページに黒鉛が散る。
(ぼくは、もう見たくない。見たくなんかないんだ……!)
龍一は小さく震えると消しゴムを取り出してゴシゴシとその痕を消した。が、消しても消してもその黒い痕跡は亀裂のように広がって残ってしまう。
その手が、全身が、小刻みに震えていた。

「風見?」
不意に呼ばれて顔を上げると、国語の吉田先生が立っていた。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「あ、いえ。何でもありません。大丈夫です」
そう言うと、龍一はパラパラと消しゴムのカスを払った。
「そうか。なら、いいんだが。模試も近いんだ。無理するなよ」
そう言うと、吉田は背を向け、再び教壇に立った。何人かの生徒がひそひそと龍一を見て囁いた。が、龍一は気にしなかった。